気付き

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私は現在自宅では自室のデスクトップのパソコン、出先ではタブレット端末とスマートフォンを多用して文章の作成を行っています。

タブレットを購入する前はノート型パソコンを持ち歩いていました。しかし、昨年9月に左鎖骨上リンパ節に転移した癌の廓清手術を行った際に腕神経叢(そう)の神経を二本切断したため、数ヶ月間キーボードを両手で打つ作業がとても難儀であった時期がありました。

それまで何も意識していなかったキーボードを左手で打つ動作に、腕神経が二本切断されたために左腕の筋肉が5分と耐えられないのです。

そこで、しかたがないので暫くは右手一本でキーボードを打っていましたが、キーボード操作を右手一本で行うのは非常に不便でした。、今までごく自然に行っていた左手で打っていたキーや変換作業などにてこずり従来の数倍の時間が掛かることのみならず誤字脱字が多くて閉口しました。

仕方なく出先ではスマートフォンで作業をしていましたが、スマートフォンだと画タッチパネルの文字盤も小さいので違う意味での打ち間違えがありました。

今年になってタブレット端末を買い現在では自宅のデスクトップのパソコン、ノート型パソコン、タブレット型端末、スマートフォンと使い分けています。

自宅のデスクトップ以外の端末は全て移動できますが、デスクトップは固定されているので現在の家に引っ越してきた2008年8月からずっと同じ場所で同じ庭を見ながら作業をしています。

それなのに、目の前の小さな庭において自分でも驚くほど多くの発見があります。


今年になってガーデニングの真似事を始めたせいも多少あるでしょうが、同じ場所から四年間見ている庭の景色が全く違うのです。

ブログで新たな発見ということで庭に咲いた『桃の花』や『ハナニラ』のことをご紹介しましたが、新たにチューリップとツツジの花が咲いているのを発見しました。

2008年の時も昨年も入院時期は秋から冬にかけてでしたので春先は同じ場所から同じ庭を見ていたのです。

しかし、今まで全く気付かなかったいろいろなことに今年になって初めていろいろ気付いたのです。

ひるがえって、自分の人生を振り返ってみますと何十年もの間全く気付かずにいたことをあることがきっかけで気付いたことが少なからずあります。

私の場合、母が敬虔なカトリック信者だったので自分の意思ではなく幼児洗礼を受けさされ物心がつく前から教会のミサに参列していました。

聖書の中の多くのイエスの教えは諳んじられるぐらいでした。

しかし、それまで単なる知識として頭には言っていたイエスの教えを初めて実感したのは2008年8月から2010年末の『癌との闘い』を通してでした。

クリスチャンではなくてもイエスの教えの『山上の垂訓』はご存知の方が多いと思います。

イエスはその中で

『明日のことは思い煩うな。明日のことは明日みずからが思い煩う。』

と述べています。

『山上の垂訓』は最初から最後まで諳んじていましたが、闘病を続けてどん底の精神状態のときにふと思いました。

イエスは

『明日のことを思い煩うなというのは明日に向けて準備をする必要ないと言っているのではなく、明日のことを十分に準備してもそのあとの自分では導き出せない結果に関して思い煩うな。十分に準備をした上でその結果に関しては天に委ねなさい』

と述べているのだと。

その時に思いました。

『そうだ。自分は現在の悩みではなく、自分の力ではどうすることも出来ない未来を想像力の悪用で悩み自分を精神的に追い込んでいたのだ』

と。

自分のすべきことは現在直面していることを一つずつ処理していくことだと思いました。

そして、それまで自分を覆っていた鎧が初めて脱げたような気になりました。

こうやって書き出してみるとごく当然のことです。

しかし、そのごく当然のことを頭ではなく身体で実感できた時に人は『気付く』のではないでしょうか。

今まで見えなかったものに気付き、今まで頭でしか理解していなかったことを実感できる状態。これを先人は

『悟り』

と言ったのかも知れません。










都倉 亮 について

1953年生まれ。幼少の頃11年ドイツで過ごし、アメリカンスクールに学ぶ。慶大卒後三井物産に13年勤務。その後会社経営を経て現在執筆を中心に活動。日本の素晴らしい面、世界基準に変えねばならない面を長年の海外生活で培った目で発信して行きたいと思います。
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