聖書と言う本

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私のブログの中で度々私がカトリックであることに触れているために、私に対するダイレクトメッセージで少なからずキリスト教並びにカトリックに関するご質問を頂き、中には入信に関するお問い合わせも頂いています。

私の場合は、亡母が敬虔なカトリック信者であったため、私は知らない間に幼児洗礼を受けていただけで、好んでカトリックになったわけではありません。それゆえ、いろいろ考えて入信したわけではないので、入信に関してはあくまでもご本人の意思でお決め頂くべきだと思います。

むしろ、幼少の頃は教会のミサは全てラテン語でなされて、意味が全く分からなかったことに加え厳格であった母親はミサ中の私語などは一切許してくれず、教会に行くのが嫌で嫌でしようがありませんでした(笑)

しかし、14歳で日本に帰国する前までは否応無しに教会に行っていましたが、帰国後は高校受験を理由に教会に行かなくなり、その後は34歳の時にくも膜下出血で九死に一生を得るまではクリスマスや復活祭のミサ以外には行きませんでした。

病気のあと少しは教会に通うようになり家族もそれを契機にカトリック信者となりましたが、その後また遠ざかるようになりました。

2008年8月に中咽頭癌が左首リンパ節に転移したレベル4の進行癌が見つかり、その後の闘病生活を経て、それまで全く理解できなかった聖書の内容が少しずつ理解出来るようになった程度です。

本日私がブログで聖書のことを表題としたのは、私のブログはフェースブック上の5つのウォールに連動されていて、その中にはそれぞれの道の権威がいらっしゃり、キリスト教に関しても私より遥かに優れたアドバイスが出来る方々もいらっしゃいますので書くことに致しました。

以下は私の限られた知識の中での解釈ですのでご了承下さい。

先ず申し上げて起きたいことは、世界で一番発行部数の多い本は群を抜いて聖書だと言うことです。

聖書は旧約聖書と新約聖書が纏めて編集されたものです。

因みに、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はそれぞれ原点となる旧約聖書をルーツとしています。詰まり、もともとのルーツは一緒なのです。

違いを簡単にご説明すると以下のようになります。

*キリスト教は旧約聖書で予言されているメシア(救い主)を新約聖書の中でイエスと信じている。

*イスラム教は教典であるコーランの中でイエスを一人の偉大な預言者として捉え、マホメッドがその後出現した最後の偉大な預言者として捉えまだ救い主は現れていないとしている。

*ユダヤ教は旧約聖書そのものを教典としてキリストを預言者の一人としても認めていなく救世主もまだ出現していない。

新約聖書とは一言でいうとイエス・キリストの使徒により書かれたイエスの教えと生涯に関する書です。

皆様の中でもクリスチャンでは無くても、ミッション系の学校などに行かれた方は聖書を読まれたことのある方々も多いと思います。

しかし、多くの方が途中でギブアップされたのではないでしょうか? 私も幼児洗礼を受けたカトリック信者でありながら新約聖書すらじっくりと読んだことはなく、表面を読んでいただけでした。

常に何故この様な書物が世界で一番読まれているのか不思議でなりませんでした。しかし、上述の通り2008年に中咽頭癌が左首リンパ節に転移したステージ4の進行癌を患い、3か月の間に癌の三大治療を全て受けた後、初めてじっくり聖書を読みました。

病院にお見舞いに来て下さいました私の人生の師である小林神父様にも恥ずかしながらどう読んだらいいかと質問しながら読みましたが、相変わらず十分に理解出来ない日々が続きました。

小林神父様ご自身が若きころ聖書を二回読んでも全く意味が理解できなかったが、三回目に目からうろこが落ちたように理解できるようになったとおっしゃっていたので、私は入院中に意味が分からなくても良いので10回読むことをノルマにして読みました。

すると今までと全く違う視点で聖書が書かれている意味が私なりに理解出来るようになりました。

新約聖書の中にはイエスの教えはいろいろな例えを用いて語られていますが、決して起承転結で書かれていないのです。

文章は起承転結で書かれていた方が分かりやすいのは当たり前のことですが、結論も決まってしまいます。しかし、新約聖書の場合はイエスが用いた例えは、人によって様々な理解が可能で、絶対的にこういう風に解釈しなければならないという決まりはなく、万人がそれぞれの解釈が可能な無限の理解の可能性のある書だと思いました。

無論、2000年近くに亘って、その時代時代の研究者によって研究されてきた書ですから、解釈方法はカトリック教会ではローマ法王を頂点としたピラミッド機構の中である程度統一された理解がありますが、プロテスタント教会では宗派によって解釈の仕方が様々だと聞いています。

イエスの教えの中心は一言でいうと、貧しい者・虐げられた者を祝福し隣人愛と平和の教えを述べ伝えたということが出来ると思います。

私は聖書を8回目に読んだとき、ある個所に目が留まりました。それはマタイの福音書の23章の11節でした。

『そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。』

何故そうしなければならない、そうすればどうなるなどという説明は一切ありません。私は自分で次のように解釈しました。

偉い人という意味は別に社会的に偉い者という意味ではなく『幸せな人という意味』として考えました。

当時、自分が病気を克服出来たら、同じような病気もしくは大病で希望を失っている人達の為に自分の体験談を世に広めて役立ててもらいたいと真剣に考えていました。結果的には自分が望むことをやればそれは人に仕えることになるのだと解釈しました。

すると上記の

『そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。』

という事の意味が私の心の中に自然にスーッと染み入りました。

イエスの教えや例えはこのように『こういうことを、こういう方法で、いついつ行えば、貴方は幸せになれますよ』というような教えではないですが、読んでいる人間の感性で無限に広がっていく教えなのです。

過日も、ヨーロッパの有名な大学で教授をされている方からフェースブックに私のことを過分にお褒め頂いた記事が投稿され、それを読んだ私が一番びっくりして穴があったら入りたい思いをしました。

私の場合は、今回の癌の転移の為の手術に次ぐ化学療法と放射線治療と合わせて過去三回の生死の境を彷徨った体験によって、自分がなすべきことが自分なりにはっきりと見えてそれに向かって行動しているに過ぎません。

私にその希望とパワーを与えて下さっているのは私にいろいろ『大病を患ったり人生の希望を見失っている』とのご相談メッセージを下さる皆さん自身なのです。更に『フェースブックのお友達』を始めとする多くの方々から日々感動と希望を頂いています。

もし、私の活動が人に仕えているという風に捉える方がいらっしゃるとしたら、それによって私は幸せを得ているのです。

イエスの

『そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない』

という教えを日々実感しています。






都倉 亮 について

1953年生まれ。幼少の頃11年ドイツで過ごし、アメリカンスクールに学ぶ。慶大卒後三井物産に13年勤務。その後会社経営を経て現在執筆を中心に活動。日本の素晴らしい面、世界基準に変えねばならない面を長年の海外生活で培った目で発信して行きたいと思います。
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聖書と言う本 への4件のフィードバック

  1. 片山 一郎裕 のコメント:
    ごきげんよう!初めて、お便りを差し上げます。私は、片山裕という者です。福岡市在住の60才の初老の男性です。あなたのブログを拝読しました。感じるところがありましたので、誤解と偏見を恐れず、感じたままをお便りすることにしました。
    それは、『そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない』というイエスの言葉は、日本語の一言でいえば、『公僕』が最も近いと思ったことです。
    権力や富、そして知識は独占するものではなく、『公』のために使われてこそ、その真価を発揮します。
    しかし、イエスが言葉を残した古の昔から、そのような使い方が出来る方は、極めて稀のようです。『私』より『公』を優先して、暮らしていくことは、なかなかに、『言うは易く行うは難し』です。『熱意』と『誇り』を持って生きる方が、『志』と『覚悟』をなして、初めて、始められることだと思います。
    イエス、モハメッド、そして釈迦や孔子等々の優れた方が、その時々に、それぞれの場所と状況で、素晴らしい見識や考え方を残しています。しかし、果たして、自分が望んだ様な実践が、どれほど出来たのでしようか?『公』のために仕え、その事に生涯を尽くすという仕事は、それほど並み大抵のことではないのだと思います。
    それ故に、今の日本には『公僕』は見当たりらなくても、私にとっては、それはそれで頷けることなのです。何処でもいる私のような凡庸な人間は、日々の暮らしに勤しみながら、ささやかな幸せを周りの方々と分かち合い、助け合いながら、分相応に慎ましく行きていける事を願うしか出来ません。
    思いつくままに、長々と取り留めのないことを書き連ねてしまいました。
    日々の暮らしでは、なかなか、ゆっくりと出来ませんが、あたなのブログがきっかけで、久しぶりに、時がたつのも忘れて、色んなことに思いを巡らせることができました。
    ありがとうございました。これからも折に触れて、あなたのブログを拝読させていただきたいと思います。
    それでは、これにて失礼します。ごきげんよう!
    • 都倉 亮 のコメント:
      貴重なコメント有り難うございます。

      イエスの言葉のみならず古今東西の『偉人』の言葉は言葉としては世間一般でも多く使われていますが、それを言葉としてではなく実感できた時に、目からウロコが落ちるような体験を闘病中に何回も繰り返しました。

      無論、私などは『悟り』などという境地からは程遠い凡夫に過ぎませんが、いろいろな体験を経て

      『悟りとは当たり前のことを当たり前として実感できたことを言うのかな?』

      という風には考えたことが何回どもありました。

      今後とも宜しくお願い致します。
  2. 穴澤 百合子 のコメント:
    都倉さん、私のFBのプロフィールに好きな言葉「受けるよりも与える方が幸福である」を載せています。
    都倉さんの方が詳しいと思いますがイエスの山上の垂訓の言葉です。
    カトリック信者ではありませんが、聖書を学んでいます。
    妻として母として悩む時、聖書の言葉は穏やかな解決策を与えてくれます。
    病床で10回を通読されるなんて・・・とても励まされました。
    私ももう少し聖書を読む時間を増やしたいと思います。
    • 都倉 亮 のコメント:
      聖書の中のイエスノ言葉は、『起承転結』で書かれていないので、分かりにくく私も闘病生活を送るまでは表面をなぞっていただけでした。

      しかし、『起承転結』で書かれていないからこそ、解釈の仕方も『これしかない』ということではなく人それぞれの解釈が可能です。

      ブログでも触れましたが、カトリックの場合はローマ法王を頂点とした組織が出来あがっていて、ある程度解釈も一定ですが、プロテスタントは宗派によっていろいろな解釈があると聞いています。

      闘病生活を経て、それまで言葉としては知っていたもののその本当の意味が分からなかった多くのイエスの言葉を『実感』出来た時、それまで私を覆っていた鎧が脱げたような気になりました。

      ライフワークとして繰り返し読み、その時に心の琴線に触れる個所を一つ一つ大切にして行けば良いと思いますよ^^

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