リストラ

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リーマンショックを契機に日本経済が一気に冷え込んでから、現在に至るまでリストラという言葉は日常で使われているカタカナ言葉で多い言葉の一つではないでしょうか?

しかも、リストラと日本人の解釈で言えば、ほぼ100%人員整理という意味に関連して使われているのでは無いかと思います。日本でリストラと言う言葉は前向きな意味は含まれていることはあるでしょうか?

リストラと言う言葉は本来英語のRestructuring(リストラクチャリング)の略語で、もともとのリストラクチャリングという意味はあくまでも構造を改革するという意味なのです。

企業が不採算部門を切り捨て、将来有望な部門へ進出するなど、事業内容を変えることなどに使われ、再構築による前向きな意味が含まれた言葉なのです。

詰まり、英語では企業なり組織をリストラクチャリングすることによって改革しましたという表現で私自身英語で話す時はよく使った言葉ですが、日本語では禁句ですよね。なぜなら、もし日本社会で

『私はリストラをして企業を改革しました』

と言ったら、先ず人員整理による企業改革という意味でした受け取られないからです(笑)

日本人はファッション的な感覚でカタカナ用語を使いたがる国民性もありますが、都合の悪いことや曖昧にしておきたい場合に使われることがとても多いと感じます。

祖母に聞いた話ですが、第二次世界大戦中は敵国英語の使用が禁止されたため野球用語の『セーフは良し、アウトは駄目』と言い替えて使っていたと聞いたことがありますが、現在では逆に意味をぼかしておきたい時に意識的に、その単語に対応するちゃんとした日本語があるにも関わらず使われていることも多いとと思います。

日本社会で使われているリストラという言葉も『人員整理』と言うより意味がぼかせるからでしょうか?

このカタカナ用語の氾濫はICT業界で一番目立つと思いますが、取り扱い説明書を読むのに辞書を引いても、古い辞書だと意味が出ていないか現在使われている意味は載っていないような言葉が使われ、殆どの人には意味を成さない取り扱い説明書が紙面上でもウェブ上でもとても目立ちます。

因みにICT業界とは、私は長年IT(Information Technology 情報技術)産業という風に言っていましたが、近年これに通信の意味のCommunicationが加わりICT(Information Communication Technology)産業と言われていると大学の後輩から教えて貰いました。

まあ、比較的歴史の浅いICT業界ではいたし方ないところもあると思いますが、それが一国の命運を左右する政治の場で多用されているのにはいささか首を傾げざるを得ません。

以前のブログでも書きましたが、政治家は国民に自分の言っていることを理解して貰い国民から信頼を得ることが仕事の重要な部分であるはずですが、使っている言葉は日本語でも『是々非々』『粛々』『政局でなくて政策で』などなど日常生活には無縁の言葉を羅列しています。更にこれにカタカナ用語が加わり『マニフェスト(選挙公約、政権公約)』『戦後レジーム(体制、政治形態)からの脱却』など殆どの日本人が直ぐに日本語として意味の理解できない用語を平然として日常的に使っています。

どの党に対する支持率よりも無党派層が多く、如何に無党派層を取り込むかに必死になってテレビのバラエティー番組やワイドショーに出ている人間が一番政治家になりやすく、選挙に有利だと言う現状は甚だ危機感を感じますが、そういう私も人のことは言えないと反省させられる事が入院中にありました。

私はブログでは日本語としてほぼ認知されているカタカナ用語しか使わないことを基本原則にしていますが、入院中に談話室でパソコンで私にいろいろお問い合わせをいただいた人たちに対する返信メールを書いていたら、同じ階の談話室でお友達になった私より大分ご年配のおばあさん達に

『あんた、毎日朝から晩まで何やってるの?』

と聞かれたことがありました。私は即座に

『パソコンでメールを打っているんです』

と答えたら

『パソコンとかメールってなあに?』

と聞かれました。

私は即座に、『パソコンはパーソナルコンピューターの略語ですとかメールとはインターネット上で情報を遣り取りする手段です』と答えても全く意味が無いことは分かりつつ、説明する言葉に迷っていたら、もう一人のおばあさんが

『あんた、それは昔の電子計算機だよ』

とフォローしてくれました(笑)

今度は、読者の若い世代の方々のほうが、意味が分からないと思うので私がフォローしますが、昔パソコンなどが出る遥か前にコンピューターのことを電子計算機と称していた時代があったのです。

私も何十年ぶりかに聞いた言葉でしたが、『そうだ!』と思い、

『そうなのですよ。今の電子計算機は小型化して計算以外にも電話機能とか手紙を送れる機能が付いたのですよ』

と説明したら、ニコニコしながら納得していただけました(笑)

パソコンとかメールのようにほぼ日本語として認知されていると私が思った用語でさえ理解していない人達が少なからずいるのです。

それを、大半の日本人に意味を聞いても正確な日本語が直ぐ出てこないようなカタカナ用語をさも当たり前のようにテレビの党派間の討論で使いあっている政治家の人たちには、『目的はお互いの村同士で分かる遣り取りなのですか?』それとも『対象である国民に理解して貰うことなのですか?』

と問いたくなります。

国民にそれぞれの意思を伝えることが最重要事項と言う認識があるなら、本来自ずとあらゆるレベルの国民に一番分かりやすい言葉を選ぶと思います。

使う言葉を選ぶ能力は、特に政治家にとっては一番大切な資質の一つだと思います。







都倉 亮 について

1953年生まれ。幼少の頃11年ドイツで過ごし、アメリカンスクールに学ぶ。慶大卒後三井物産に13年勤務。その後会社経営を経て現在執筆を中心に活動。日本の素晴らしい面、世界基準に変えねばならない面を長年の海外生活で培った目で発信して行きたいと思います。
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リストラ への2件のフィードバック

  1. 鈴木凛太郎 のコメント:
    池田貴明君「リストラ」July, 2001

    本稿は筆者の同僚かつ畏友である池田貴昭君の以下のような問題意識に触発され、長年にわたり、中国を始めとするアジア諸国に対する技術移転、化学・発電・環境保護プラントの輸出や、関連事業の展開を担当して来た者の一人として、この地域に元来欧米から輸入されて来た「合理的思考、科学的思弁」のたどった道を振り返って整理しておきたいとの思いから纏めたものである。以下に些か長くなるが「日本社会の前近代性とタブーを背負った事業」と題する同君の論考を引用する。

    「常日頃時々私の脳裏をかすめる思弁がある。
    もし、この地球上から、欧米諸国、否欧米諸民族が消えてしまったと想定して、
    それでも、日本は、「科学」を持ちこたえられるだろうか。と言う、他愛の無い、又有り得ぬ妄想なのである。しかし、これは結構私にとっては重要な妄想なのだ。欧米の科学的合理性のイニシアテイブを喪失しても、尚、この国は、「理性」
    を拠り所とした国家たり得るであろうか? 欧米のイニシアテイブを喪失した瞬間、この国はどういう方向に舵がむかうのであろうか。同じ疑問は、中国についても言えそうである。中国はかつて、火薬を発明し、紙を生み出し、また、指南車のような方位計もうみだした、世界で最も科学が進歩した国であった。
    なかんずく磁器は、当時ハイテク材料で、我が国に入ったのは、高麗経由秀吉
    が朝鮮征伐で略奪してきてからであった。しかし、その中国が、その後こと「科学」と言う側面において大きく立ち後れ、欧米諸国はもとより日本にも後れを取ったのは現代史の謎と行って良い。なかんずく、科学的思弁が中国で育まれることはついぞなかった。未だ記憶に新しい「文化大革命」など、その最たる謎の典型である。

    中国に比べ我が国は明治の開国、第二次大戦後の民主化と工業化など、こと「科学」については、まさに東洋の優等生であったし、今もそうであると大方の人々は信じている。私もずっとそう思っていた。しかしここに来て、私の脳裏には
    この日本の体質そのものに対する疑問が生じ始めたのである。特にその兆候が現れ始めたのは、1990年代の不況が始まり、所謂「リストラ」とか「構造改革」
    とか称する運動が始まって以来である。この動きは、第二次大戦前、世界不況に見舞われて、軍国主義が台頭してきた雰囲気に似ていなくも無い。一見「リストラ」とか「構造改革」は合理主義の産物のようであるが、実態は「理性的なもの、科学的なもの」を社会から排除する方向に進んではいまいか。あるいは、「リストラ」とか「構造改革」の美名の下に、非合理主義、非科学性が日本人の心理に台頭してきているのではないかと言う危惧感である。「理性的なもの、科学的なもの」は心地よさとは無縁のものであり、現状否定、時には自己否定をも伴う非情なものであり、タブーなどとは一切無縁のものである。タブーとは、「非合理性、非科学性」そのものである。

    我が国に、それでは「合理主義、科学性」が主導した自己社会改革が歴史上存在しなかったかと言うと、決してそんなことはない。「信長」はまさにその寵児ではなかったか。勿論彼に「科学」とか「合理主義」などといった理念や概念は無かったであろう。しかし彼は「本能的」にそれを体得していたようである。
    従って我が国の国民性の中にそのような本質、即ち「科学や合理主義」に依拠する体質が皆無かというと、そんなことはないのである。しかし、「欧米の影響を排して」それが、日本社会を風靡したことは「信長」の挫折をもって、実現することは今まで無かったと言えるであろう。

    欧米諸国は、追い詰められた時、「科学」に回帰する。米国は第二次大戦で、日本やドイツに追い詰められた時、アインシュタインの一般相対性理論を信奉して「原子爆弾」を編み出し、戦局を勝利終結させたのである。一方我が国は、「神風」とか、神話的非合理性に依拠し、「敗戦」を迎えたのである。勿論私が、地上に生を授かる前の出来事であるが、この時代(戦時中)程、日本社会にタブーが横行した時代はなかったのではないかと言われている。

    タブーを伴侶とした戦略は必ず破綻する! そのような戦略にけして加担してはならない。タブーは人間の心理から理性を排除しようとするものである。もしタブーを理由に言動の制約を受けるようなことがあれば、それは如何なる理由にせよ違法な制約であり、組織なり、社会を敗北に導く制約である。もしその事業が、タブーの上に成り立っているようなものであれば、そのような事業は即刻中止すべきである。長い目で見た場合、そのような事業が成功を収めた事実を私は知らないからである。」




















    鈴木凛太郎「リストラ」July, 2001

    2-4 現代における合理的思考と科学的思弁
    戦後の経済復興の牽引車となったのは、石炭を始めとするエネルギー産業そして消費財を生産する工業であった。この分野の発展を支えたのは科学技術、就中生産技術の発達であった。欧米からの技術導入も頻繁に行なわれ、生産技術の開発、改良をになう技術者は当然「合理的思考と科学的思弁」に基づかなければ仕事にはならず、技術者たる前に一人のScientistでなければならなかった。

    また将来高度成長を支える働き手となるべき子供たちへの基礎となる学校教育の分野でも、義務教育、高等教育を通じ特に理数系の分野において「合理的思考」「科学的思弁」を身につけさせるべく重点が置かれた。したがって国民のすべてに基本的素養としてこれが植え込まれた。他方こうした工業生産の発達によって、農林水産の一次産業から多くの労働力が工業に吸収されていく過程で、主として農漁村に温存されていた封建性、旧社会制度も一部を除き、次第に消滅されていった。

    日米安保改定時の政治危機を乗り越え進んだ、工業分野における生産性の向上がもたらした製品輸出(特に対米輸出)の急成長は、1960年代後半に至り日本の産業をまずは保護主義から脱皮させ、外国製商品及びサービスの輸入自由化、外国資本の導入の自由化、さらには円レートの固定相場から変動相場へと進ませていった。日本経済の「国際化」の始まりである。これ以降「合理的思考、科学的思弁」は我が国のものを含む「世界資本」の思考様式として理解されるに至った。
    こうした資本主義の高度化とにともない1950年の「全面講和か単独講和か?」との国民的論争時、また1960年の安保改定時には民主主義者たちの思想的Backboneとなった「近代主義」は徐々にそのActualityを失い、資本主義の高度化に対応する新たな人間的理論が求められるに至った。

    現在我が国企業でも進められている ”Restructuring” ,“Re engineering”, 「構造改革」などは、経済のGlobalization に対応して、世界市場における国際競争に勝ち抜けるだけの利益の上がる事業分野に、「ヒト、モノ、カネ」という経営資源を集中配分して行くという過程である。ここでも英語の本来の意味から逸脱して、カタカナの「リストラ」という日本語化した言葉が一人歩きを始め、この過程の中でそれは「陳腐化した労働力(例えばIT化の進む職場環境、仕事のやり方の変化に追随して行けない「中高年層」)の切り捨て」という極めて暗い一面のみを表わす言葉に成り下がってしまっている。勿論 ”Restructuring”がそうした一面を含みうるのは確かだが、正しくはRe-allocation of Business Resourcesであり、昔からアメリカの経営学が教えてきたところである。問題はそうした言葉にあるのではなく、その全容と実態であり、またその資本主義史の上での位置づけである。

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