平和的撤退

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多くの日本人にはイスラエルとパレスチナの問題に関しては余り関心が無いと思われますが、私にとってはイスラエルとパレスチナの平和的な共存は亡き母と父の夢であったため、紛争が起こるたびに心の痛い思いをします。

1982年5月30日に、日本人が海外で起こした最大のテロ事件がイスラエルのロッド空港で勃発したのです。

それはイスラエルのロッド空港で日本赤軍が自動小銃を乱射して起こした無差別テロで多数の死者が出た事件です。

この事件は、当日深夜近くロッド空港の荷物引渡し所のターンテーブルで荷物待ちをしていた乗客約百人が出てくる荷物を受け取ろうとしていた矢先に、いち早く荷物を見つけ、奪い合うようにしながらその荷物を開いた三人の日本人青年が、中から自動小銃を取り出すや、周りの人たちに向けて無差別の乱射をはじめ多数の死傷者を出した事件です。

あらかたの人間が倒れたのを見ると、三人は自動小銃を捨て、身に巻きつけていた手榴弾とともに滑走路で翼を休めていた旅客機に体当たりをしようと駆け出しましたが、二人が途中で転び手榴弾が爆発してバラバラに飛び散り、残りの一人が警備隊により身柄を拘束されました。

この時の駐イスラエル日本大使は私の亡父、都倉栄二だったのです。父はその後、ハンガリー大使、スウェーデン大使を歴任して退官しましたが、大使としての初めての地で起きた大惨劇だったのです。

イスラエル国内では大きな反日感情が沸き起こり、イスラエル政府としても日本との国交断絶に関する緊急閣議で激論が交わされていた中、アラブ諸国に気兼ねしていた日本政府の対応が遅れ、父としても日本を代表する最高責任者として決断をせまられたのです。

その後、父は著書『外交官の決断』の中で、外交官としてのルールの遵守、現地に於ける判断、私人としての考えに悩みぬいたと書いていました。

父は事の重大さに鑑み最終的に独自の判断で、日本政府の訓令を受け取る前にイスラエルの国営放送に出演し、5分間の謝罪をカタカナで通訳に書いてもらったヘブライ語でイスラエル国民に述べたのです。

その父の決断の背景には、敬虔なカトリック信者であった母親の最終的には

『人間として正しいと思う決断をして欲しい』

という涙ながらの要請も後押ししたと母が亡くなった後に父より聞きました。

結果的に父の謝罪の言葉を聞いた当時のメイヤー首相が、

「この事件によって、日本民族とイスラエル民族の敵対関係を作り出してはならない。先刻の日本大使のテレビ放送を見たと思うが、我々は国交断絶という謝った結論を出してはならない」

と、強硬派を収めたということです。

それから遅れること数時間後に日本政府から正式に謝罪するようにとの訓令が届いたそうですが、それを待ってからの行動であったら閣議決定は違う結論を出した可能性の方が高かったでしょう。

父は長年母親の説得にも関わらず、カトリック信者にはならなかったのですが、この事件を契機にイエス・キリストがヨハネに洗礼を受けたと言われる聖なるヨルダン川の水で洗礼を授かりました。

母親は、連日負傷者を見舞う不眠不休の活動を続けた結果、数ヵ月後に胃痛を訴え始めたそうです。結果的にこれが父がスウェーデン大使の時に判明した母の胃癌の初期症状だったのです。

母はスウェーデンのノーベル生理学・医学賞を決めるカロリンスカ大学病院で胃を全部摘出する手術を行い、父も退官を早め帰国しましたが、一年後に母親は永眠しました。

また、父もイスラエルとパレスチナ問題が報道されるたびに、何とかイスラエルとパレスチナの平和的な共存が実現して欲しいが、自分が生きている間には残念ながら実現しないだろうと悲しげに言っていました。

それゆえ、多くの日本人にはこの度の国連でのパレスチナの国連加盟問題に関しても、殆ど関心のない話題だったようですが、私は大きな関心を持って見守り続けました。

そして互いに暴力の連鎖ではなく、平和裏に共存して欲しいと願っています。

一方、添付の二枚の写真はこのブログの内容にそぐわないかと思う方が多いと思いますが、私が最も喜んで占有地を明け渡した例として掲載させて頂きました。

私が、退院して23日に行う講演の準備をしていた時に、どうしようもない眠気に襲われ仮眠を取っている時に家内が写した写真です。

家内は写真だけ撮ってそのまま部屋を出て行ったそうですが、暫くして胸の圧迫感で目が覚めたら何と シンバ が私の胸の上で寝ていたのです。

我家の一員になったばかりの8月にも私の身体の上で寝たことがありますが、その時は殆ど重さも感じませんでしたが、三ヶ月ですっかり体重も増えたのです(笑)

目も覚めたので引き続き講演準備を続けましたが、やがて本格的に寝ようと思いベッドの方を見ると、何と シンバが 私の枕の上でもう一枚の写真の様に眠っていました。

その姿を見て私はどうしてもシンバの睡眠を妨げるような私の占有地の奪回のための実力行使には出られませんでした(笑)しかも、幸福感に満ちた気持ちでまたコンピューターに向かって講演の準備を継続しました。

23日の講演のあと、多くの参加者からメール及びフェースブック経由お便りを頂き、身に余るお褒めのお言葉を賜りましたが、それはシンバの功績だと言っても過言ではありません(笑)

願わくは父親が外交官生命を懸け、母親が命を懸けたイスラエルとパレスチナ問題が武力に頼ることなく平和裏に共栄共存の方向に向かうことを願ってやみません。













都倉 亮 について

1953年生まれ。幼少の頃11年ドイツで過ごし、アメリカンスクールに学ぶ。慶大卒後三井物産に13年勤務。その後会社経営を経て現在執筆を中心に活動。日本の素晴らしい面、世界基準に変えねばならない面を長年の海外生活で培った目で発信して行きたいと思います。
カテゴリー: 国際交流 タグ: パーマリンク

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