ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ

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先日ベネズエラの知人から訃報の知らせが届きました。

Professora Fernandez(フェルナンデス教授)が亡くなったという知らせでした。享年96歳とのことでした。

フェルナンデス教授は今から30年前、私が三井物産の駐在員としてベネズエラに赴任していた時にスペイン語の家庭教師をして下さった、元キューバのハバナ大学の教授だったインテリ女史です。

いつも毅然とされていて、ベネズエラでは親しくなるとファーストネームで呼び合いますが、自身の事はプロフェッソーラ(女性教授の呼称)と呼ばせ、私のこともファーストネームでは呼ばず、いつもセニョール・トクラ(英語で言うミスター・トクラ)と呼んでいました。

同女史との思いでは、私がスペイン語の 日常会話のみ を学ぶ目的で家庭教師のお願いをしたにも関わらず、有無を言わせず 教材にスペイン人でも難解と言われているミゲル・デ・セルバンテスのドン・キーホテを使うと仰ったことでした。

簡単な会話だけを覚えることが当初の目的でしたので、これには困りましたが・・・笑。

ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)は、英国のウィリアム・シェークスピアと同世代の偉大なスペインの作家です。

日本ではシェークスピアの影に隠れた感がありますが、欧米諸国ではセルバンテスの代表作の

ドン・キホーテ(Don Quixote)

は、シェークスピアの作品に勝るとも劣らない高い評価を受けている文学作品です。

騎士道物語を読み過ぎて妄想に陥った郷士の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ(ラ・マンチャの騎士・キホーテ卿)」と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語です。

女史はスペイン出身でキューバに移民してキューバが華やかだった頃にハバナ大学で教鞭をとっておられましたが、キューバ革命の際にベネズエラに亡命されて来たのです。

レッスンが終わると、女史は嗜みませんでしたが、キューバ産の葉巻とラム酒を出して下さり、常にチェ・ゲバラ、カストロのキューバ革命は間違いだったと言うことが口癖で、華やかりし頃のキューバの話を懐かしそうに話して下さいました。

私は、女史のお話より葉巻とラム酒が頂けるのが楽しみでしだったのですが(笑)、キューバ革命の生き証人の女史のお話はとても興味深いものでした。

私が二年間の赴任期間を終え帰国する時には、ドン・キホーテはまだ2/3ぐらいしか読み終えていませんでした。

私は最後のレッスンの時にお礼を述べたついでに

『本は日本に戻り読み終えたら読後感をお送りします』

と調子の良いことを言ってしまいました。

帰国後多忙を極めて挫折しそうになりましたが、お世話になった女史との約束なので半年がかりで読み終え読後感をお送りしました。

一ヵ月後ぐらいに女史から手紙が届きそこには

『親愛なるセニョール・トクラ。貴方のドン・キホーテの読後感を拝見、忙しい仕事の合間に私との約束を果たした貴方に心から敬意を表します。

私は日本人と知り合ったのは貴方が始めてでしたが、貴方を見ていて日本が何故第二次世界大戦後に奇跡の経済発展を成し遂げることが出来たか理解出来ました。』

と、 穴が有ったら入りたくなるような 褒め言葉が書かれてありました。 しかし最後に

『貴方の手紙に幾つかの文法的な間違いと、表現として適切でないものがありましたので加筆訂正します』

と、私の手紙のコピーをとって赤いボールペンで加筆訂正した用紙が同封されていました・・・笑。

フェルナンデス女史の訃報に触れ、女史から頂いた手紙を探し出して読み返してみました。

そして、遠い地で 短絡的な目的でスペイン語を学ぼうとした私に正統なスペイン語を教えてくださり 息子のように可愛がって下さった恩師のご冥福をお祈りしました。





都倉 亮 について

1953年生まれ。幼少の頃11年ドイツで過ごし、アメリカンスクールに学ぶ。慶大卒後三井物産に13年勤務。その後会社経営を経て現在執筆を中心に活動。日本の素晴らしい面、世界基準に変えねばならない面を長年の海外生活で培った目で発信して行きたいと思います。
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