イジメ

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昨今、私が幼少の頃には考えら無かった小学生、中学生などがイジメを苦にして、自らの命を絶つという痛ましい報道を目にする機会が増えています。

そして、事件があるたびに学校長や教育長のお偉いさんが出てきて

『イジメは有ったの無かったの』、『イジメが自殺の直接の原因かどうか特定できていない』

などと言う不毛な議論が報道されます。

このように繰り返される異口同音の発言は、自分たちが教育者として資格が無いと言うことを全国に露呈している発言以外の何物でもありません。



では、イジメは昔は無かったのでしょうか?

私は、幼少の頃から14歳になるまで11年間ドイツで過ごし、ドイツではアメリカンスクールに通学しました。

それゆえ、私の場合は何処に行っても『アウトサイダー』からのスタートでした

アメリカンスクールで『ジャップ(日本人を蔑視する言葉)』と呼ばれ喧嘩した事もありましたし、目に見える形でのイジメは何回も経験しました。

しかし、喧嘩を通じてとても仲が良くなり、親友になった連中もいます。

残念ながら、私が経験した中で一番陰湿なイジメは、わが祖国日本に帰国してきた時のことでした。

それは、表面的なイジメでは決して無かったのです。

表面的には寧ろ普通なのですが、グループの中に入ろうとすると、そこには無言の障壁が待ち構えていたのです。

仲間に入れないのです。

それは、存在を無視されているのと同じことでした。

私の体験上、人間は言動で示されるはっきりしたイジメにはそれなりに対応出来ても、『存在を無視される』ことに関しては、何もすることが出来ません。

私は高校時代の三年間は、『日本人が何を考えて行動しているのかと言うことを理解する事』に費やした日々であったと言っても過言じゃ有りません。

仲間はずれにされて『自殺』した子のことを、

『確かにお弁当は一人で食べていたが、イジメは無かった』

と言う校長の言葉には開いた口が塞がりませんでした。

お弁当を皆がグループに分かれているのに一人で食べていたり、皆がグループで遊んでいるのに一人でポツンとしていたりしている姿を教師が見たら、その状況を『イジメ』に有っている可能性が高いと思わないのでしょうか?

結論として『思わない』のだと思います。

何故なら、このイジメの問題は日本の社会に深く根付いた病巣に原因があるからです。

その病巣とは、

『同じ類のものだけで戯れ、異質のものを受け入れることが出来ない』

日本社会の閉鎖性にあると思います。

日本社会の全体的な利益より自分の属している世界の利益を重視する、いわゆる『村社会』的な考え方が、子供の世界にも根付いているのです。

表面的な事件を取り上げ、その場凌ぎの言い訳を述べるのではなく、先ずは大人達が自分たちの問題として内省して、自分たちが率先して異質なものを受け入れていく必要があるのです。

異質なものを受け入れることが出来ることによって、社会は初めて柔軟性を持つことが出来、ダイナミックなエネルギーが生まれるということを理解し無ければなりません。

この重要性を理解して直ぐに実践に移さねばならないと考えます。



都倉 亮 について

1953年生まれ。幼少の頃11年ドイツで過ごし、アメリカンスクールに学ぶ。慶大卒後三井物産に13年勤務。その後会社経営を経て現在執筆を中心に活動。日本の素晴らしい面、世界基準に変えねばならない面を長年の海外生活で培った目で発信して行きたいと思います。
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